以前の採集       



         初めての採集

 熱帯魚や海水魚を小学生のころからすくない小遣いで細々と飼っておりましたが、昭和46年、中学生になった私は電車通学するようになり、帰りにデパートの熱帯魚売場や大きな熱帯魚店に寄るようになりました。そしてF誌を毎月購入するようになりました。
 当時、F誌では毎月の様にS先生、O氏、W氏といった方々の海水魚採集の記事が記載されておりました。それを読むと私の小遣いではなかなか買えないチョウチョウウオやサザナミヤッコが海で採れるということがわかり、父にお願いして採集に行くことができました。
 昭和46102日のことで相模湾のMという所へ連れて行ってもらいました。小さな、熱帯魚をすくう網しか持っていかなかったので、オヤビッチャもなかなかつかまりませんでした。この日、潮が上げ始めた時、岩場で2cm位のサザナミヤッコを見つけたのですが、つかまえられませんでした。今ならそれでかなり落ち込むでしょうが当時は、やっとつかまえたオヤビッチャ1匹とヘビギンポ2匹、ハゼ2匹で結構、満足して帰って来ました。
 この日は何と裸足で磯を歩き回っていたので帰ると足の裏が傷だらけになっていました。


           初めてのチョウチョウウオ

 昭和47年、今度はS先生の記事によくでてくる房総のMという磯に行きました。ここで石の下を出入りしている輝くチョウチョウウオを初めて見て感動しました。(ナミチョウですが)運良く2匹つかまえて帰ることができました。
 これに気を良くして、翌週も小潮なのに出かけたら、案の定、タイドプールがあんまり出来ていなくて2cm位の1匹しかとれませんでした。
 その後も毎年のようにここへ行くようになりましたが、次の段階のトゲチョウをつかまえたのは数年後、サザナミヤッコをつかまえたのは十数年後のことでした。


高校生の頃

 中学、高校の頃は海水魚ひとすじという訳ではありませんでしたので(というか今でも熱帯魚もいますが。)海、行くのは年に1〜2回でした。あいかわらずのナミチョウねらいをくり返しておりました。
 大学受験もせまりつつあった高2の頃、F誌で八王子にあるPFCという熱帯魚の愛好会の会員募集のことを知りました。その会は熱帯魚だけでなく海水魚、金魚、その他小動物すべてOKということで私にピッタリと思い入会することにしました。当時もどちらかと言えば海水魚に力をいれていたので、そこの会報に海水魚採集記や海水魚のイラスト描いたりしておりました。
 入会翌年の昭和51年のこと、採集会を行おうという話になり、私がその係をすることになりました。電車で行くことになり、行き先は房総ではちょっと遠いので相模湾MK浜に決定しました。
 メンバーは会長のIさん、Sさん御夫妻、後の有名人Tさんと私でした。
 東京駅で待ち合わせしてMまで電車で、バスに乗り換えてKに到着です。夏休み中だったと思いますが人はたくさんいましたが魚はいまひとつでした。しかたなく私はイソだコケだダイナンだとギンポ類ばかり5種を集めておりましたがTさんなどはフウライチョウを2匹getしておりました。実は海でフウライ見たのはこの時がはじめてでした。
 結局、この日はナミチョウなどはいなくて、私はチョウチョウ採れずじまいでしたが、みんなで採集行くのははじめてで楽しい時をすごしました。


高校生の頃 その2

 採集会の数日後、Tさんから採集のおさそいがあったので御一緒させて頂くことにしました。コリドラス愛好家のKさんが車をだしてくださって3人で三浦半島方面に向かいました。
 Kさんは海水魚飼っていらっしゃらないとのことでしたが採集地に詳しく車の中でTさんと今日はどこどこに行くかと相談されておりました。やがて着いたのは磯ではなくどこかの漁港でした。当時は採集といえば磯採集しか頭になかったので、こんな所でなに?釣り?って思いながらついていきました。漁船の舫ってある岸壁に着くとTさんは釣り竿かと思っていた竿の先に網を取り付け、いきなり岸壁に腹ばいになって魚を採りはじめました。上から見ただけで何種類か魚がいるのがわかり、短時間のうちにサザナミフグ2匹とアミメハギなどをつかまえていました。場所を変えるというので、また車へ。漁港名はしっかりチェックしておきました。
 別の漁港では大きなハコフグなどがいましたが、ここでは収穫はナシ。時期が来ればチョウチョウも来るとのことでしたが、この日はいませんでした。
 その後、ようやくSという磯へ行き採集しましたが、ここもあまり収穫はありませんでした。
 この日は採ったサザナミフグ2匹を頂いてしまい、また岸壁採集という今まで知らなかった魚採りを教わって大喜びで帰って来ました。ただし、もう大学受験まで6ケ月をきってしまっておりましたので、翌日からは珍しくまじめに勉強することとなりました。


大学生の頃

 短い間の受験勉強ではありましたが、ラッキーにも志望の私立大学に合格でき、まだ国立大学の試験は残っていましたが、もう熱帯魚屋通いが復活でした。国立の方はそんな訳でダメでした。
 大学は1クラス、7080人の4クラスという、少人数のマイナーな所でありました。
 ここでは某クラブに入部することにしました。(もちろん魚のクラブなんてものはありません。)ここでは、同じクラスから、もう1人、h君と一緒でした。ある時、h君、別のクラスの地方から来た奴に、海岸がどうだの、潮だまりがあるのか、だの聞いているのが、こちらの耳に入ってきたので、さらに耳ダンボにして聞いていると魚をつかまえて飼っているんだとのこと。これはもう放っては置けません。さっそく「おれも魚つかまえて飼ってるヨ。外房でチョウチョウウオ採れるヨ。Mって行った事ある?」と話に割り込みました。
 と、いう訳でその年の夏はh君と採集に行くことになりました。この年はチョウチョウが多く1回でナミチョウ30匹位採っちゃったり、またトゲチョウをはじめて採ったのも彼と行った時でした。この頃はまだ外房へは電車で行ってましたが、秋頃からはh君の車で三浦方面にもちょくちょく行くようになりました。しかし当時でも三浦方面では、よくてナミチョウって感じでした。翌年からは外房へも車で連れてってもらいましたが収穫は相変わらずナミ、トゲってとこでした。
 h君の飼育槽は60センチで底面濾過、海水は天然海水でしたが、結構、長生きしていました。そういえば当時は海水汲んで帰るのに、左右に1個ずつ20リットルのポリタンクぶらさげて、岩場から道路を渡ってむこうに停めてある車まで運んだんですよね。今ではとてもそんな根性がありません。
 その後はh君はK半島やI半島(この時は一緒に行った。)そして卒業してからはしばらくNS諸島方面に行ってたし、公務員になってからはI諸島に勤務だったりと結構魚採りしてたみたいですね。今でも飼ってるようですが、その後、もうひとつの趣味が忙しいようだったり(彼は社交ダンスの腕前はプロ級で数年前、大ヒットした某映画にも出演されてたんですよ。)、おたがい小さい子が2人いたりとかで一緒に採集行かなくなっちゃいました。
 私のほうは、社会人になるのがいやだったんでもう少し、大学に残ることになりましたが、その頃のことはまた次に書きます。


大学院生の頃

 もうすこし気楽な学生でいたいと思っていた私はそのまま大学院生として残ることにしました。ただ仲の良かった友人達は就職して1年目はすこしさみしい状態でありました。この年は確か何かと大変で採集にも行かずじまいでした。(昭和56年)翌年になってすこし余裕がでてきたのでまた海にでも行こうかという気になったものの採集仲間だったh君は就職して島へ行ってしまったし他には魚飼ってる人もいませんでした。
 やむをえず開き直って研究室の後輩の女の子達に「海に熱帯魚採りに行こうぜ〜」とさそってみると思いもかけずよい返事が。(中、高と男子校な上に恥ずかしがり屋なもんで前年まではそんなこと言うなんて考えられなかったんですが・・・)
 という訳でこの年(昭和57年)は5月頃から何度も海へ行くことに。タイドプールでもタツノオトシゴとったり、タコもつかまえて、帰ってから食べたりと楽しく採集に行っていました。6月からはお決まりのナミチョウも現れ毎週のように出かけました。
 御盆休みの時なんかは教授が来ないもんだから、1日おきで出かけたりしちゃって。でも実は生物系の大学で修士論文ひかえてるわけですから、毎日2回、実験室へ世話しに行かなくちゃいけないわけでありまして、朝2時過ぎに家を出て早すぎなんだけど3時から4時にお世話、その後、数人の後輩のアパートや自宅を回ってから海へ行ってチョウチョウ採り、昼すぎからは御宿の海水浴場へ行ってダラダラ過ごし、夕方、朝と逆の経路で大学にもどってから、ひと仕事、その後、家に帰るともう翌日です。(家と大学は車で1時間ちょいでした。)魚を水槽にいれるとバタンキュー。でも昼前にはまた大学へ行ってお世話をしなくちゃなりません。そして次の日は面子を変えて、またまた初日と同じスケジュールで海行きです。実はこの日、実験室でちょっとしたアクシデントがあり後でみんなからさんざん怒られることに・・・。
 こんな風にしてかなりチョウチョウウオ採って帰ったのですが輸送中に死んでしまったのは1匹もいませんでした。しかし餌やりが不定期でしかやれないし、なぜかカニとかも一緒に入ってたりして喰われちゃったりとかで、この頃は全然うまく飼えませんでした。(かわいそうなことをしてしまいました。今だったらもっと長生きさせられるのに・・・)
 またこの年は9月に入ってから、トゲとフウライがたくさん現れて、1つのタイドプールに数匹入っていたりしました。
 11月にはチョウチョウはめっきり減って文化の日に採ったチョウハンが最後のチョウチョウウオでした。
 その後、遊び過ぎのため、修士論文でえらい目にあいましたが、翌年、なんとか無事に社会人となることになりました。


昭和58,59

 昭和584月より都内調布市の某所へ勤務することとなりました。もっともここは大学から車で10分くらいで、仕事終わってから大学へ遊びに行ったりと相変わらずの生活でした。
 しかし、この2年間はなぜか日記みたいなものを書いていたので、採集行った日が記録に残っています。

 58515日 キヌバリ 9匹 カゴカキ 1匹

   6月12日 ナミチョウ 10

   6月26日 ナミチョウ 16匹 トゲチョウ 1匹

   7月10日 ナミチョウ 33匹! チョウハン 1匹

   7月24日 ナミチョウ 8匹

   8月21日 ナミチョウ 1匹 フウライ 1匹 トゲ 1匹

 59715日 ナミチョウ 7匹 ソラスズメ 1匹 カゴカキ 1匹

   7月29日  ???

  10月28日 久しぶりにM半島、数ヶ所へ行くも収穫なし。

 昭和58年の夏にTMAが発刊され、当初は海藻やサンゴの飼育法で盛り上がっておりましたので、つられてそちら方面に力をいれてました。当時、よく行っていたショップは杉並区のTFと浅草橋のHってところでした。TFでは無脊椎、Hでは魚を買ってました。

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